ちょっと前のことになりますが、ロックマニアを狂喜させたに違いない?ジャニス・ジョプリンの「クライ・ベイビー」が使われていた2021年の「ミス・ディオール」のCM覚えてます?
いきなりジャニスの強烈なシャウトがTVから聴こえてくるってあのインパクトに度肝を抜かれた人も多いと思うんですが、実はあの曲ってオリジナルは50年代に大ヒットしたセンチメンタルで甘~い雰囲気の黒人ソウルのスタンダードだったんです。
それに加えて当時の英米のロック黎明期についてもいろいろと教えてくれる、ウンチク満載な曲ということがわかったのでシリーズでご紹介しようと思います。
この記事では「クライ・ベイビー」のオリジナルバージョンを歌っていた黒人シンガーのガーネット・ミムズと彼のユニークな経歴についてご紹介します。
記事後半にはオリジナルとジャニス・バージョンの聴き比べ動画もあるので、併せてお楽しみくださいマセ♪
実は当時のロック界隈とも親交が深かったガーネット・ミムズ
筋金入りのロックファンにはほとんど縁なさそうな世界の話ですが、「クライ・ベイビー」のオリジナルは1960~70年代にアメリカで人気だった「Garnett Mimms & The Enchanters(ガーネット・ミムズ&ジ・エンチャンターズ)」という黒人R&B/ソウル・グループの作品です。
この記事で取り上げるガーネット・ミムズはそのリード・シンガーだった人。
黒人音楽界に大きな功績を残して表彰もされた人ですが、さらにジャンルを超えて当時の多くの新鋭ロック・アーティストたちとも親交があり、また多大な影響も与えたというけっこう重要な位置づけにある人です。
例えばジミヘンとコンサートで共演したり、彼の曲はジャニスやレッド・ツェッペリンを始めとした有名どころがこぞってカバーしています。
ジャニスがアルバム「パール」の中で歌っている「マイ・ベイビー(クライ・ベイビーとは別の曲)」もまたミムズの曲のカバーです。
彼女ってこの手の黒人ソウル系の音がすごい好きだったみたいで、同時代のヒット曲をたくさんカバーしてますね。
大西洋を越えてロックの発展にも貢献
ちょうどミムズが活躍した’60年代は「ブリティッシュ・インヴェイジョン」で、英米のミュージシャン同士の大西洋を越えた交流が盛んになった時代でもありました。
それに加えてストーンズを始めとした白人ミュージシャンたちがロックと黒人音楽の融合を必死に試みていた時代でもあり。そういった時代背景が重なったことも彼のユニークな活動歴に影響を与えたんだろうと思います。
その反面、まだ人種隔離政策の影響が色濃く残っていたに違いない60~70年代当時のアメリカ社会のことを考えると、彼の行動は大胆というか破天荒とも思えるほどなんですが、実際に彼はとてもユニークな人生を歩んでいます。
ロックの歴史の一部としても興味深い話なので、ガーネット・ミムズの略歴についても簡単にご紹介したいと思います。
ついでに言うと、「マイ・ベイビー」を作詞作曲&プロデュースした「バート・バーンズ&ジェリー・ラゴヴォイ」の2人もロックの発展に貢献して没後の現在でも多くのアーティストたちからの尊敬を集めています。
この二人についてはのちのち取り上げる予定なので、名前だけ覚えておいてくださいマセ。
ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invation)とは・・・
1960年代半ばにビートルズやストーンズを始めとしたイギリスのバンドがアメリカのヒットチャートを席巻したり、英国ポップカルチャーがアメリカに持ち込まれた時期をこう呼んでます。
キリスト教の伝道師に転身した超ユニークなミムズの人生
1933年生まれの彼が2024年の現在も存命中かは不明ですが、つい最近見た英語版ウィキペディアでは90歳で「存命中」となっていたので現在でもその可能性はありそうです。
さすがに音楽活動からは引退している気配ですがw
彼の人生がとてもユニークだと思ったのは、プロのシンガーから突如キリスト教の伝道師に転身したという経歴がどこかリトル・リチャードと通じるものを感じさせられたことです。
(リトル・リチャードをよく知らないという方は、この記事の後半にある【トリビア】を読んでみてね♪)
とはいえリチャードの場合はその5年後に音楽界に復帰していますが、ミムズは1978年以降は音楽活動からは完全に引退した様子です。
ガーネット・ミムズの音楽キャリア
ミムズは1953年から78年までミュージシャンとして活動。
この間に「クライ・ベイビー」を始めとする数々のヒットを飛ばし、多くの英米のロックのビッグネームとも共演しています。
1978年以降は突如悔い改めてキリスト教の伝道師へと転身、刑務所の受刑者に向けた伝道活動等に専念するようになります。
2007年に久方ぶりの新作としてゴスペル・アルバム「Is Anybody Out There」をリリースしていますが、英語版wikiには「1978年に音楽キャリアからは退いた」となっているので、これは商業的なアルバムではなくあくまでも宗教活動に根差したもののように思います。
彼の音楽面での功績には「Rythm & Blues Foundation」から黒人音楽の発展に貢献した人に授与される「パイオニア賞」が1999年に与えられています。
最初は恵まれなかった音楽活動
ミムズは生まれはウエスト・バージニア、育ちは東海岸のフィラデルフィアで、10代の頃から地元の教会の聖歌隊で歌い始め、その後は小規模なゴスペル・グループ、ドゥーワップ・グループ等を経てから1963年にNYへ移り本格的な活動を始めます。
こういうことからも彼の音楽的なルーツがゴスペルということがわかるのですが、当時のフィラデルフィアは黒人音楽全般にとっては不毛の地だったようでなかなか成功の糸口を見つけられずにいました。
フィラデルフィアは70年代に入ってから「フィリー・ソウル(=Philly Soul。フィリーはフィラデルフィアの愛称)」と呼ばれるほど多くの黒人ソウル・アーティストを輩出した街でしたが、ミムズの時代はまだその気配はなかったんですね。
そんなこんなで駆け出しの頃のミムズは地元ではあまり恵まれず途中で軍隊に入隊したりしてますが、その後ニューヨークへ移ってからが転機となります。
画像は当時大人気だったフィリー・ソウルの大御所テディ・ペンダーグラス(Teddy Pendergrass, 1950-2010)。1981年発行の音楽誌の表紙(インスタ投稿より)。
一世を風靡したあの「ホール&オーツ」のダリル・ホールともお友達だったそう。
ヒットメーカー「バーンズ&ラゴヴォイ」との運命の出会い
冒頭にも名前を出した「バート・バーンズ&ジェリー・ラゴヴォイ」は当時東海岸を拠点に多くのヒット曲を飛ばしていた白人のコンビですが、元々は黒人音楽の世界で活躍する売れっ子ソングライターとプロデューサーでした。
後にジャニスを始めとした多くのロック・アーティストたちが彼らの作品をこぞってカバーしたり、バート・バーンズは個人的にもジミー・ペイジと親交があり、バーンズの没後にはツェッペリンがトリビュートを録音したりしているのですが、それはまた別の機会に。
で、今回の主役のミムズですが、フィラデルフィアではパッとしなかったものの、1963年にグループ(エンチャンターズ)と共にニューヨークへ移り、プロデューサーのバート・バーンズと出会ったことがミムズの運命を変えることになりました。
後に彼らの最大のヒット曲となる「クライ・ベイビー」は、このバーンズと彼の相棒だったソングライターのジェリー・ラゴヴォイによる作品です。彼らは当時黒人音楽の世界で数々の大ヒットを連発していた白人の名コンビでした。
とはいえ、ミムズとこの二人がチームを組んだのは「ある実験」のためでした。
それは、「より都会的に洗練されたサウンドにミムズのゴスペルやディープソウル色の濃いヴォーカルを絡ませて、新しいスタイルの黒人音楽を創る」ことがそもそもの目的だったといいます。
結果的にこの試みは大成功を収め、その後も彼らは数多くのヒットを連発、ロックの発展にも大きく貢献し続けていくのは最初に書いた通りです。
オリジナルとジャニスのを聴き比べ(動画リンクあり)
Youtubeを探したらガーネット・ミムズのオリジナルバージョンの「クライ・ベイビー」がありましたよ♪
この曲は1971年5月に全米チャートで最高4位を記録して当時の大ヒットになっています。
もうひとつ注目したいのは、バックコーラスには後にソウルミュージックの大御所となるディオンヌ・ワーウィックとその妹のディーディ(ホイットニー・ヒューストンのいとこでもある)が参加していることです。
一流どころが参加しているということからも当時の彼の人気のほどがわかりますね。
歌の内容を大雑把に訳すと、一度は自分を捨てて他の男に走ったものの、結局捨てられてまた戻ってきた元カノに「お帰りベイビー。今は何も話さなくていいから、ただ泣くのがいいよ」とやさしく慰める男性の気持ちを歌ったものです。
曲調もどことなくノスタルジックで甘く切ない感じです。
(ジャニス・バージョンとは歌詞がちょっと違ってます)。
高校時代から友人の影響で当時流行っていた黒人音楽に傾倒していたというジャニスですが、この曲は彼女が10代の青春まっただ中の頃に聴いていた思い出の曲だったんだろうなと想像しながら聴くと感慨深い気分になりますね。
彼女の歌ってアグレッシブな印象が強いので、このソフトなオリジナルバージョンはちょっと意外な感じでした。
下はジャニス版の「クライ・ベイビー」のショートバージョン。ディオールの魅惑的な映像と共に、目の保養にもどうぞ♪
ジャニス・バージョンの方はわりと原曲には忠実に思いますが、彼女独特の絶叫唱法のおかげで原曲に較べるとだいぶドラマチックな展開になっていることがわかります。。
ミムズのオリジナル・バージョンが「涙にくれる女性にやさしく語りかける歌」だとしたら、ジャニス・バージョンの方はさながら「今は泣きなよ。アンタの愚痴に朝まで付き合うから、一緒に思い切り飲み明かそうぜ」といった感じかなぁ~
フルバージョンはこちらでどうぞ↓
【トリビア】たしかにミムズはジミヘンと共演していた!
音楽活動を引退する直前の年に「ジミ・ヘンドリックスと一緒にUKツアーした」という記述があったので、ほんとーにジミヘンと共演したのだろうかと不思議に思ってググってみたら確かに記録に残ってました。
「1967年5月7日、英国、ロンドン、Saville Theatre(サヴィール・シアター)」(赤枠部分)
この歴史ある劇場はのちに改装され、名前も「ODEON(オデオン)」となって現在でも多くの公演に使われています。「オデオン」と言えば、ブリティッシュ・ロック好きには馴染みがあるはず。こういういきさつだったと知り驚きました。
【補足】「ロックの父」リトル・リチャードについて
冒頭でちょこっと触れたリトル・リチャードについてご紹介♪
一度聴いたら忘れられない絶叫ボーカルとド派手な出で立ちで「ロックンロールの父」と呼ばれたリチャードは、ミムズと同年代に活躍したアーティストですが、人気絶頂だった50年代半ばに突然音楽界を引退し牧師に転身。
ジャニスもビッグ・ブラザー時代に彼の「Ooh My Soul!」をカバーしてるよ。
一度は宗教活動に専念しますが、その5年後にまた音楽界に戻り2020年まで現役で活躍しました。
画像は1960年頃のリトル・リチャード。
画像を見ただけでも相当アクの強そうな人だってことはわかりますが、この通りの人です^^;
希代の天才とも言うべき彼の独特なスタイルはビートルズやストーンズを筆頭に、没後の現在でも多くのロックアーティストたちに影響を与え続けています。
ロックファンにはお馴染みの「Long Tall Sally」は彼の一番の代表作といえるかもしれません。
ちなみにリトル・リチャード(本名:Richaard Wayne Penniman)は2020年に87歳で亡くなっています。長生きでしたね。
偶然なことに、つい最近(2024年3月)に彼のドキュメンタリー映画「リトル・リチャード アイ・アム・エブリシング」(配給:キングレコード。下はトレイラー動画)が公開されていたそうな。レビューも高評価なので機会があったら観てみましょう。
【まとめ】実はロック史にとっても重要だったガーネット・ミムズ
ミス・ディオールのCMで話題をさらったジャニス・ジョプリンの「クライ・ベイビー」は、元々は1963年にアメリカで大ヒットした「ガーネット・ミムズ&ジ・エンチャンターズ(Garnett Mimms & The Enchanters)」という黒人のR&B/ソウルグループがオリジナルです。
リード・シンガーのガーネット・ミムズはゴスペルをベースにしたスタイルで1960年代に多くのヒット曲を飛ばした当時人気の歌手でした。
曲にまつわるエピソードやのミムズのトリビアをいろいろと書いてみました。
1933年生まれの彼はまだ存命中の可能性もあり、生きていれば現在91歳ということになります。
単なる黒人シンガーの粋を飛び越えて当時の第一級ロックミュージシャンたちとも親交を築き、影響を与え続けた人でもあります。
また、彼ばかりではなく「クライ・ベイビー」を作詞作曲したバート・バーンズとジェリー・ラゴヴォイもロックミュージックの発展には多くの功績を残した人たちです。
ロックの歴史にとっても重要な位置づけにある人たちだと思うので、名前ぐらいは覚えておいて損はないと思いますヨ。
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